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新鬼平随想録
第10回 『池波の文学修業』

 池波正太郎は昭和35年、真田藩の『錯乱』で直木賞を受賞したが、その際読売に「私の文学修業」(『おおげさがきらい』講談社文庫)と題する一文を寄せた。
 その中で池波は、作家としての私に最も影響を与えた職業は、無理矢理戦争中に徴用された飛行機部品工場の旋盤工の仕事であったと述べている。
 また作家としての私に最も大きい影響を与えた書物は、長谷川伸先生の歴史小説とサン・テグジュペリの小説(『夜間飛行』)やエッセー(『人間の大地』)であったと書いている。
 『鬼平犯科帳』は、この8年後から連載されたが、池波の随筆等を読むと、やはり旋盤工の体験、長谷川伸とサン・テグジュペリの文学の影響を受けて書かれていると思う。
 最初に、池波は昭和17年、19歳の時に東京・芝浦の萱場(かやば製作所に旋盤工として徴用された。その頃のことが、随筆「私の仕事」(『私の仕事』朝日文芸文庫)に次のように書かれている。
 指導員の水口伍長が旋盤を徹底的に人間扱いすることや、「何時間かかってもいいから、図面を穴のあくほど見るんだ。そしてどこから先ず手をつけたらいいか、それをよく考えるんだ。手順が一つでも狂ったら品物は出来ないんだよ」とコツを教えてくれた。
 ネジを先に切るべきか、溝を先に(るべきか。ある日突然ぱっと分かった。図面が読め、機械が手足のように動き始めた。物を作る手順を感覚で体に覚えこませたことが、今の小説を書く仕事の基盤になっている。
 例えば第103話『霜夜』の場合、平蔵が料理屋で食事をしていると、隣の部屋から昔の友人・池田又四郎の声が聞こえる。しかし平蔵は池田に声をかけず、密かに尾行する、という情景が脳裡に浮かぶと、それをともかく書いてしまう。そして他のことをするが、次の情景がその内浮んでくるので、それを書く。こうして書き進めると、人物の性格が生まれ、息づき、動き出し、テーマが浮き上がってくる。だが構成をあらかじめ立ててないので、結末は自分でも分からない。
 次に池波は昭和22年、都職員ながら読売の演劇文化賞の佳作を取り、選考委員だった長谷川伸を翌年訪ね、劇作の指導を(うた。そして長谷川の脚本・戯曲研究会の二十六日会と小説研究会の新鷹(しんよう会に入り、長谷川の教えを克明にノートに取った。
 「人間というものは、ふだん悪い奴でもセッパ迫ると善いことをする。またふだん善い奴でもセッパ迫ると悪いことをする。そしてふだんは善いことも悪いこともする」(『完本池波正太郎大成・別巻』講談社)は、昭和30年1月15日の二十六日会で述べた長谷川の教えであるが、『鬼平犯科帳』の第10話「谷中・いろは茶屋」その他で平蔵が語る人間観はこれと全く同じである。
 また「鬼平犯科帳・雑記」(『作家の四季』講談社文庫)によれば、池波は昭和30年頃、徳川幕府編集の『寛政(かんせい重修(ちょうしゅう諸家(しょか(』を買い、読み始めたが、長谷川平蔵が自分の想像を無限に広げてくれる人物なので、何としても芝居にしたいと思った。しかし自分が脚本・演出を担当する新国劇は長谷川のイメージに合わず、また昭和35年に直木賞を受賞したが、当時の文章は長谷川を書くに適していないとも考えた。オール読物の昭和43年からの連載は、未だ早いと思ったが、読者が支持してくれたので嬉しかったという。
 最後に、サン・テグジュペリは昭和元年、母国仏国とアフリカ、南米を結ぶ郵便輸送飛行機の操縦士となり、4年にはブエノス・アイレスの現地法人の支配人となって操縦士等を指揮したが、その経験をもとに6年に小説『夜間飛行』(新潮文庫)、14年に随筆『人間の大地』(同)を出版している。
 『夜間飛行』は郵便輸送飛行機会社のブエノスの支配人・リヴェールの一夜の物語である。その一夜の内に3機がブエノスに帰還中であるが、パタゴニア線のファビアンの飛行機が暴風雨に巻き込まれ、リヴェールは敗北する。しかし彼は到着したチリとパラグアイ線の郵便を臨時便で欧州へ輸送し、夜間飛行をやめない。
 文豪アンドレ・ジッドは、「この小説中の人物は、みながそれぞれ、その義務とする危険な役割に、全身的、献身的に熱中し、それを成就したうえでのみ、彼らは幸福な安息を持ち得るのだ」という素的な序文を寄せた。
 池波は昭和15、16年頃、『夜間飛行』や『人間の土地』を読んで感動するとともに神田シネマパレスで映画『夜間飛行』も見ている。クラーク・ゲーブル演ずるファビアンが暴風雨で針路を失い、燃料も尽き果て、やむなく機を上昇させ、雨雲の上へ飛び出ると、そこは静かな月光の海で、思わず飛行眼鏡を取り、その美しさに見とれる時、燃料が尽き、プロペラが止まるシーンを何回も見たという(「ろくでなしの詩と真実」『おおげさがきらい』講談社文庫)。
 以上であるが、火付盗賊改め方の平蔵を始めとする者も、天明の大飢饉で治安が最も乱れた時期に、みながそれぞれ、その義務とする危険な役割に、全身的、献身的に熱中し、それを成就したうえでのみ、幸福な安息を得る人達なのではないかと思われる。