第50回「越中・井波―わが先祖の地(参)」

 前回に引き続き随筆「越中・井波」の原文と備考をお読み頂きたい。

 〔原文〕この日は、瑞泉寺ずいせんじを拝観した。この寺は、古いむかし、南北朝のころ、後小松ごこまつ天皇の勅許を得て創設された大寺である。北陸は「真宗王国」と、いってよい。戦国のころの、宗徒たちの、法灯を守るための結束は非常なもので、その激しい抵抗に戦国大名たちは大いに悩まされた。堂々たる入母屋いりもや造りの山門、大屋根の本堂、太子堂など、その大伽藍がらんのすべてに、「隙間もないほどに……」さまざまな木彫がほどこされている。さすがに井波の大寺院だ。私の祖先も、この寺の改築には動員されたのではあるまいか。

 〔備考〕瑞泉寺は明徳元年(1390)、浄土真宗・本願寺5代・綽如しゃくにょ上人が後小松天皇の勅願所ちょくがんしょとして建立こんりゅうされた寺である。実はその6年前、朝廷で浄土真宗を禁止する動きがあり、上人は越中・砺波となみぐん野尻のじり村の人に勧められ、その地へ下向げこうされていた。その結果、越中には同じ念仏ねんぶつぎょうを行う時宗じしゅうの信者が多く、またお寺を建てるべき勝地しょうち (井波のこと)もあると感じられた。そこへ朝廷より依頼があり、上人が急ぎ上洛し、明国の国書を解読され、返書も起草されたところ、天皇は勅願所の建立を許されるとともに、その地に上洛の際に霊水が湧き出したので、寺名を瑞泉寺、地名を井波いなみと命名されたと伝えられる。

 次に戦国時代には、「一向一揆いっこういっき」といって、浄土真宗の本願寺派の武士門徒、農民門徒、僧侶が行った戦国大名等の支配に抵抗する戦いが各地であったが、瑞泉寺関係の主な一揆をあげれば、以下の通りである。

 ①砺波郡一向一揆 文明ぶんめい13年(1481)、福光ふくみつ城主・石黒光義は加賀守護・富樫とがし 政親まさちかに依頼され、瑞泉寺に逃亡した加賀門徒を討伐し、瑞泉寺を焼亡しょうぼうするため、天台宗のそう 海寺かいじ しゅうを参加させ、出兵をした。この時瑞泉寺は3代・蓮乗れんじょうが病臥中、4代・蓮欽れんきんが13歳、ほり土塁どるい、武具もなく、危急存亡の時を迎えた。しかしこれを知った五箇山ごかやま、井波近在、山田谷・般若はんにゃ 、射水郡等の農民門徒が竹槍等を持って大勢瑞泉寺に集まり、山田川の川原で対戦した。同時に加賀・ 涌谷わくだにの農民門徒も福光城等を攻撃したので、石黒勢は総崩れとなり、石黒光義が敗死する。この一揆は瑞泉寺の地位を高め、後の加賀一向一揆の先例にもなった、重要な一揆であったといわれる。

 ②加賀一向一揆 長享ちょうきょう2年(1488)、4代・蓮欽の時代にこれが起き、瑞泉寺門徒も多数参加する。20万人の門徒が高尾城を取り囲み、富樫政親とその一族は1人を除き、自刃じじんした。その1人・泰高やすたかが守護となり、実質上「百姓ノもちタル国」(実悟記拾遺じつごきしゅうい)は以後百年続くことになる。

 ③永正えいしょうの一向一揆 永正3年(1506)、5代・賢心けんしんの時、加越能の門徒が越前へ侵出し、守護・朝倉貞景さだかげに反対する一揆を起こす。これは本願寺の指示によるものであったが、一揆側は大敗し、吉崎御坊も破却される。他方越中に帰った門徒が暴威を振っているとして、守護代の神保・遊佐ゆさ氏が越後守護・上杉氏に討伐を頼み、守護代・長尾能景よしかげ (上杉謙信の祖父)が派遣されたが、般若野で敗死をする。

 ④石山合戦いしやまがっせん 元亀げんき元年(1570)、6代証心しょうしんの時、本願寺11代・顕如けんにょ上人が織田信長に石山本願寺を破却せよと勧告されたとして、諸国の門徒に一揆を起こす様に指示をする。また三好、朝倉、浅井等の大名も信長に叛旗はんきひるがえした。しかし、朝倉、浅井は滅亡し、越前、伊勢長島の一揆も殲滅せんめつされたので、本願寺は信長と和睦する。ところが足利義昭が毛利、上杉、武田、北条の信長包囲網を作ったので、天正4年(1576)、顕如上人は諸国の門徒に番衆 ばんしゅう (人員)、食糧、金銭、鉄砲、火薬かやく、大砲、舟、馬の貢進こうしんを求め、石山本願寺に籠城ろうじょうする作戦を立てる。これに対し越中は、五箇山、石動、氷見等が番衆を派遣し、瑞泉寺等が米、善徳寺が五箇山産の塩硝を送付し、その他金銭、鉄砲も提供したという記録が残る。しかし天正8年(1580)、結局勅命で、本願寺は教団赦免と地位保障の代りに、大坂引渡しをする条件で信長と講和を結んだ。

 ⑤瑞泉寺の焼亡しょうぼう 天正9年(1581)、7代・けん しゅうの時、佐々成政の部将が瑞泉寺と町を焼払い、井波を占領をした。本願寺と織田信長は講和による停戦を全国に指示したが、教如きょうにょ上人(顕如の長男、東本願寺初代)が別途抗戦を指示し、越中では一揆が継続していたのである。顕秀と弟・准秀じゅんしゅうは五箇山へ避難し、後に顕秀は上洛、准秀は北野に移った。天正10年(1582)、本能寺の変が起こり、翌年柴田勝家を倒した羽柴秀吉は、13年(1585)、叛旗を翻した越中の佐々成政を降参させ、北野瑞泉寺に禁制きんぜいを下し、これを保護した。そして文禄3年(1594)、8代准秀が京より井波へ戻る。

 以上であるが、池波は法灯を守るため結束して戦国大名に抵抗する、瑞泉寺とその宗徒達を誇りに思っていたので、それを感じていただければ、幸いである。また瑞泉寺は今まで3度も焼失したが、人々はくじけず、代を重ねて再建を果してきた。その回復力と宮大工の活躍を、次回備考で書いてみたい。(続く)

  【ご参考】新鬼平随想録 第2回『秘密の場所』