第54回「池波正太郎の銀座日記(2)」

2番目の[原文]と[備考]は、元武士の町医者・片桐宗かたぎりそう しゅん敵討かたきうち討手うってから逃れ、恋人と暮すため、江戸から越中・・井波・・へ移り住むという長編時代小説「秘密」の執筆に関するものである。

 [原文]☓月☓日
 新年から週刊文春で始まる連載小説の第1回だけでも、旧年のうちに書いておこうと思ったが、「秘密」という題名は決っても、やはり、書けなかった。私の小説は書き出してみないことにはわからない。これは昔からのくせで、いまさらどうにもならぬが、いつも新しく始める小説を書くときの不安は消えない。ともあれ、トップ・シーンさえ頭に浮んでくれば書く。あとは登場人物とテーマを追うだけである。(後略)
 ☓月☓日
 昨夜ベットに入ってから、新しい小説のトップ・シーンが頭に浮んだので、すぐさま飛び起き、忘れぬうちにと、第1回目の挿画さしえを1枚描く。今度もまた、自分の小説に挿画を描くことになったからだ。
 ☓月☓日
 (前略)いよいよ週刊誌連載第1回目の締切が明後日にせまったので、おもいきって書き出してみる。夕景までに8枚すすむ。おもってもみなかったような主人公になってしまったが、どうやら、うまくやれそうな直感がする。(後略)(「銀座日記」227―230頁、「銀座百点」昭和61年3月号)

 [備考]最初に1番目の☓月☓日は内容から見て昭和61年の1月上旬であろう。池波は週刊文春の昭和61年2月6日号から始まる連載小説で、先祖の地である越中・井波を書こうと、12月には決めていたと思う。この場合主人公は、井波生まれの人と井波へ移住する人と2通りあるが、池波は後者を選ぶ。しかしこれだけではトップ・シーンがすぐに浮ばなかった。池波がトップ・シーンにこだわるのは、戦時中に旋盤工として航空機用精密部品を製造していた時、最初に正しい箇所かしょから削らないと、必ず失敗すると厳しく訓練を受けたからである。
 次に2番目の☓月☓日は、前後から見て1月中旬の始めであろう。その日池波は、片桐宗春が丘の上で待ち伏せ、追ってきた侍を斬り、丘を降りてくると、丘の上から黒雲が追いかけ、刀を出して宗春の頭を突き刺す、そんな夢を見るシーンを思いつく。挿画画家になることが夢であった池波は、これをすぐ描き、「秘密」の最初の挿画にする。これは59年の鬼平犯科帳番外編「乳房ちぶさ」に続く、夢のうれしい実現であった。
 最後に池波の原稿締切は、週刊文春2月6日号の発売・・が1週間前の1月30日(木)なので、その2週間前の1月16日(木)であろうし、3番目の☓月☓日は1月14日であろう。この日から2日かけ、①主人公が前述の恐しい夢を見て悲鳴をあげたこと、②女主人公・おたみ・・・が心配したこと、③主人公は処刑場があった小塚原こつかっぱら村と 河島かわしま村とが入り組んだ農地の林の中の百姓家を借り、独り隠れ住むこと、④友人の医師が紹介する患者かんじゃを往診していること等を書き、池波は1回目の原稿を無事仕上げた。
 3番目の[原文]と[備考]は、池波が母を亡くし、井波へ行けなくなることに関するものである。

 [原文]☓月☓日
 (前略)年賀状のかわりの喪中欠礼のハガキの宛名を書く。(中略)つづいて、間もなく始まる週刊誌の原稿3枚弱と絵を描く。むずかしい。(中略)この秋は、先祖が江戸へ出て来る前(天保年間)に住み暮していた富山県の井波へ行こうと思っていたが、ついに行けそうにもなくなってきた。(「銀座日記」295頁、「銀座百点」昭和61年12月号)
 [備考]最初に☓月☓日は、内容から見て61年の10月下旬の始めであろう。この日から池波は喪中欠礼の葉書の宛名を自ら書き始めた。この年の3月、苦楽を共にしてきた母が突然脳出血で倒れ、意識も戻らず、5月11日に亡くなったのである。池波はこの日400枚の宛名を書いた。
 次にこの年の4月、池波は母の看護の中で紫綬しじゅ褒章ほうしょうを受ける。このこともあり、10月時点で予定も含め連載物が5本になり、この日も新連載「ル・パスタン」(仏語で気晴きばらしの意味)の原稿を書くが、910字以内で随筆をまとめられず、何回も書き直した。以上の様に仕事が増えたため、池波は井波行きを断念したが、「秘密」が丁度9月11日号で完結し、主人公・片桐宗春が代わりに越中・井波へ行ってくれた形になったことは面白い。なお「秘密」の井波関係の[原文]等については、別途御紹介する予定である。
 最後に「銀座日記」によれば、この日の夜、白と茶の小猫が池波家へ迷い込む。夫人が母の生まれかわりでは、というので、池波は飢餓状態でおとろえた小猫の体を獣医に治してもらった後、飼い始めた。皆が小猫をかわいがるので、他の4匹の猫が外へ飛び出し、帰ってこないこともあった(297頁)。また母が脳出血した時、池波は母が生きている内死ねないと思い、身体に気を付けたという。幼少の頃に祖父が死んだ時、曽祖母が嘆き悲しんだからである(334頁)。 (続く)