第59回「秘密と越中・井波(3)」

  長編時代小説「秘密」(文春文庫)の越中・井波関係の3番目の原文とその備考をお読みいただきたい。

 [原文](前略)
「よくきいておくれ。明日の夕暮れどきに、身支度をして、私の隠れ家へ来ていてくれ。よいな」
「大丈夫です」
 おたみの顔が輝いた。
「大むらの御主人にも、だれにも内証ないしょにして、黙って抜け出して来てもらいたい。それができるか?」
「できますとも」(中略)
「これでよし。さ、大むらへもどるがよい」
「はい」
「大むらでは変りはないか?」
「お歌ちゃんも、すっかり元気になりました」
「よかった。これで、江戸に、おもい残すことはなくなった。では、いま申したことを忘れずに……よいか。明日の夕方だぞ。お前が来ぬときは、私ひとりで江戸をってしまうことになる。ここへは二度と来ない。わかっていような?」
「はい」
しっかりとうなずき、おたみは[大むら]へ帰って行ったが、その帰りぎわに、垣根のところで振り向き、ほとんど声にならぬ声で、
「うれしい」
と、いった。(後略)(「秘密」文春文庫304-305頁)

 [備考]最初に、粗筋で述べたが、吉野屋が安らかに息を引き取ると、宗春はその日隠れ家へ帰り、旅支度をする。2人の患者に対する責任は果したし、江戸屋敷の藩士が執拗しつように自分を探しており、1日も早く越中・井波へ向った方がいいと決断したからである。
 次に宗春は翌朝すぐ向島の福松の家に行き、彼に料亭・大むらに勤めるおたみを連れて来てもらう。上の会話はその時のものであるが、宗春はおたみに明日の夕方、隠れ家に来る様指示する。こんな素早い決断が、2人の越中・井波行きを成功させることになる。
 続いて4番目の原文は長文であるので、数回に分けて、原文とその備考をお読みいただくことにする。

 [原文の1](前略)
「さて、若先生。江戸をはなれて何処へ行きなさるので?」
「越中の井波いなみというところへまいるつもりです」
「越中……」
 越中(富山県) 砺波郡となみぐん井波いなみは、越中の高岡より七里。
 五箇山から飛騨ひだへつづく利賀とがの山地を背負った平野にあり、古いむかしの南北朝のころ、後小松天皇の勅許を得て創設された瑞泉寺という大刹たいさつがある。
片桐宗春が井波を知っているのは、堀内源二郎一行に追われて旅をつづけるうち、二度ほど立ち寄っていたからだ。(後略)(「秘密」文春文庫336頁)

 [備考の1]最初に、粗筋で述べた様に、宗春は兄を殺された夜、自分も暗殺されると考え、勝庵に明朝早くおたみと江戸を発つ決意を述べる。この会話は、その際勝庵と弟子・白石に行先の越中・井波を説明したものである。
 次に原文の中にある「古いむかしの南北朝のころ」のくだりの文章は、池波が昭和56年、初めて越中・井波を訪れて書いた随筆「越中・井波―わが先祖の地」(以下「随筆」という)の中にある「この寺は、古いむかし、南北朝のころ、後小松天皇の勅許を得て創設された大寺である。」(「私が生まれた日」朝日文庫160頁)の文章をもとに書かれたものである。

 [原文の2](前略)
 北陸の地は「真宗王国」である。
 戦国のころの、宗徒たちが法灯を守るための結束けっそくは非常なもので、その激烈な抵抗に、戦国大名たちは大いに悩まされたという。(後略)(「秘密」文春文庫336-337頁)

 [備考の2]原文の文章は、「随筆」の中にある「北陸は真宗王国と、いってよい。戦国のころの、宗徒たちの、法灯を守るための結束は非常なもので、その激しい抵抗に戦国大名たちは大いに悩まされた。」(「私が生まれた日」朝日文庫160頁)という文章をもとに書かれたものである。なお池波はこの結束力の強さが越中・井波の人の特徴の一つと考えていた様である。

 [原文の3](前略)
 大刹・瑞泉寺の大伽藍のすべてを埋めつくした見事な木彫も、井波の工人の手によるものだそうな。(後略)(「秘密」文春文庫337頁)

 [備考の3]原文の文章は、「随筆」の中にある「その大伽藍のすべてに、隙間すきまもないほどに……さまざまな木彫がほどこされている。(中略)私の祖先も、この寺の改築には動員されたのではあるまいか。」(「私が生まれた日」朝日文庫160頁)という文章をもとに書かれたもので、池波は宮大工だった祖先を「秘密」の中に密かに入れたのであろう。