第10回『炎の色』

 『鬼平犯科帳』は、もとより鬼平の盗賊追捕の物語であるが、密偵のおまさが人間として成長してゆく物語にもなっていると思う。

 鬼平は20歳ごろ、継母と折合いが悪く、元盗賊であるおまさの父の家を根城に本所・深川で放蕩無頼の日々を送っていたが、10歳くらいのおまさはそんな鬼平に恋心を抱く。その後二人は別れ別れとなり、おまさは盗賊の世界へ入ったが、鬼平が長官になったと聞いて、(どうせ足を洗うなら長谷川様のために働きたい)と20余年ぶりに鬼平に会い、密偵となった(『血闘』文春文庫4巻)。

 そんな気持ちのおまさは一生懸命働き、女性に厳しい鬼平に「女は皆同じようでいて、男なみの仕事をさせたときにちがってくるのだ」と言わせる(『おみね徳次郎』4巻)。

 しかし、ある事件でおまさは昔愛した盗賊・二代目狐火の勇五郎と再会、堅気となる狐火と夫婦になって京へ行くが死別し、また密偵になるという波乱もある(『狐火』6巻)。

 そして、おまさが女賊の盗人宿の前の家で、鬼平の信頼の厚い密偵・五郎蔵と夫婦をよそおって見張りをした時のことである。ひと月くらいいっしょに暮らした夜、二人は自然に結ばれるが、このときおまさは、(これでいい、これでいいのだ)と自分に言い聞かせる(『鯉肝のお里』9巻)。

 こうして二人は鬼平の媒酌で夫婦となったが、五郎蔵の女房としての心と、少女が胸に秘めてきた鬼平への思慕とは別である。今のおまさは、頼もしい夫・五郎蔵と力を合わせて、鬼平のために働ける後半生を得たことに(なんというしあわせな女なのだろう)と感じる(『迷路』22巻)。

 おまさが大手柄を立てたのは、女賊・荒神のお夏の事件であった。偶然、旧知の盗賊・峰山の初蔵に出会い、助力を求められたおまさは、お夏の信頼も得て、箱崎町の醤油酢問屋へ引込女として入り込む。そして、問屋へ押し込んだ荒神・峰山一味はおまさの情報により、一網打尽となった。鬼平は「いや見事な働きじゃ。お前がこれで平蔵の立派な片腕になってくれたな」と言う(『炎の色』23巻)。

 さらにこのとき一人逃げたお夏が、その後人を使って裏切ったおまさを誘拐しようとする。これに対し、「お夏は江戸に放火する恐れがあり、それを探るために誘拐されてみる」というおまさの使命感に、鬼平は感嘆するのであった(『誘拐』24巻)。

 以上、『炎の色』や『誘拐』のおまさは、鬼平に代わって主人公になった感がある。女性に厳しい池波がこんなふうに書いたのは、ある映画の影響もあったのではないかと思う。

 『銀座日記』(新潮文庫)を読むと、池波は昭和61年8月30日封切りの『エイリアン2』の試写を見て、「7年前に『エイリアン1』を見た時のショックは相当なものだったが、今回も女優・シガニー・ウィバーの迫真の演技にただ見とれるばかりであった」と感心している。『炎の色』は、この頃の「オール読物」(昭和61年8月号~62年1月号)に連載されたものである。

 また、平成元年5月20日封切りのウィバーの『ワーキング・ガール』の試写を見て、「会社の男女差別がよくわかり、約2時間少しも退屈しなかった」と共感している。『誘拐』はこの後の「オール読物」(平成2年2月号~4月号)に連載されたが、作者死亡で未完となった。

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