第13回『盗賊人相書』
前回『兇賊』(文春文庫5巻)の鬼平は、九平を不審に思い、念のため人相書を作らせたが、もしこれをしていなければ九平は逮捕されず、鬼平は確実に殺されていたから、人相書も馬鹿にはできない。
『盗賊人相書』(6巻)もそんな人相書の話で、深川のそば屋に盗賊3人が入り、偶然便所にいた少女を除き5人を殺害した。しかし、この少女が盗賊一人の顔を見たため、近所に住む絵師・石田竹仙が人相書を画くことになった。改方御用の絵師・竹垣正信(幕府御抱え絵師・墨川宗信の内弟子)が休暇中だったからである。
この人相書から、犯人は遠州・無宿の熊治郎とわかったが、鬼平は竹仙が人相書を画くと無口になったのを怪しみ、熊治郎を知る密偵とともに竹仙を見張っていた。案の定、竹仙は動き出し、一杯飲屋に隠れている熊治郎と会って「人相書を画いているうちにお前だとわかったので逃げてくれ」と頼む。2人はかつて一緒に盗みをした仲だったのである。しかし、竹仙が殺されかけたので、鬼平はそんな熊治郎と手下2人を斬る。
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『鬼火』(15巻)では、竹仙が久々に登場し、殺された浪人の人相書を画く。
最後に第6回の『迷路』(22巻)にも、人相書の話がある。鬼平は居酒屋・豆甚の親父とそこにいた女の人相書を、菊地夏信(正信の後任か)に画かせたところ、親父は矢野口の甚七とわかり、また女のいる盗人宿もわかった。その女が父親の盗賊・猫間の重兵衛に会いに行ったことから、事件の首謀者が彼だと判明する。
なお池波は、子どもの頃から絵が大好きで、挿絵画家になる夢を持っていた。だから竹仙が登場したときはなるほどと思ったが、意外に活躍しなかったのは、池波自身が昭和52年から絵を画き始めたからではないかと思う。
この年池波は、初めてフランスを訪れ、風景や人物をクロッキーにするとともに写真に撮って持ち帰り、水彩画を画いた。それからがぜん絵を画くようになり、昭和59年には、週刊文春連載の『乳房』の挿絵を自らが画き、夢を実現した。
私は平成元年5月、銀座で開かれた「池波正太郎・絵筆の楽しみ展」を見逃したが、平成15年4月、上田市の池波正太郎真田太平記記念館を訪れ、フランスで画いたパステル画35枚を見た。実に見事な絵で、とくにアルルを流れるローヌ河の絵が印象に残っている。