第44回『山吹屋お勝』

 今回は池波の自選作の第2話「山吹屋お勝」(文春文庫5巻)を取り上げ、その概要と感想を述べてみたい。
 寛政6年の秋のある朝、巣鴨の大百姓・三沢仙右衛門の長男・初造が清水門外の火付盗賊改め方長官の平蔵を訪ねてきた。彼は今年31歳。妻との間に3人の子を設け、平蔵の従兄いとこで隠居した父・仙右衛門に代わり、三沢家の当主を務める。この三沢家は長谷川家へ奉公に上がり、平蔵を産んだ亡母・おそのの実家であり、今も平蔵は年2回程三沢家を訪問するし、仙右衛門も何度も役宅に参上し、平蔵と呑むことを楽しみにしている。しかし初造が役宅へ現われたのは初めてである。
 居間へ入った平蔵は、初造と挨拶を交わし、その中で仙右衛門殿に変わりはないかと尋ねると、そのことでございますと初造が困った顔でいう。さては急病かと思ったが、実は父が嫁を貰いたいといい出しまして、と初造がいうので、平蔵は破顔一笑、妻・久栄もくすりと笑った。
 仙右衛門は今年55歳になる。5年前に妻・みねを亡くしたが、以後再婚について本人も家族も平蔵も考えたことがなかった。そこで平蔵は初造と昼食を取り、じっくりと話を聞くと、それは次の様なことであった。
 仙右衛門は毎月1度、王子権現へ参詣し、その後近くの料理茶屋・山吹屋で食事をすることを習わしとしていた。しかし、この夏のある日、参詣の帰りに暑気あたりをして、山吹屋へころげこみ、そこの女中の看護を受けたことがあった。女中はお勝といって30がらみのしとやかな女である。それからは仙右衛門は3日にあげず、王子権現にお参りをし、3日前にお勝を嫁にしたいと初造に相談した。巣鴨の名門・三沢家の隠居が20も年下の茶屋女と再婚するのは問題があり、初造は父をいさめてほしいと懇願した。平蔵はいい女性であれば再婚もいいと思ったが、それをいわず、快諾をし、初造が喜んで帰った後すぐ駕籠を呼び、王子権現の山吹屋へ向かった。
 江戸時代、現在のJR王子駅の西方一帯にうっ蒼たる樹木に囲まれた王子権現と王子稲荷の境内があった。境内の外を音無川が流れめぐり、辺りは武蔵国の風趣ある田園地帯、近くには桜で有名な飛鳥山がある。これらを楽しみつつ両社に参詣し、音無川の岸辺の茶屋で酒食を済まして帰る。これが当時江戸の人々の遊山ゆさん行楽こうらくの最高のものであったという。
 午後2時頃、平蔵は編笠をかぶり、浪人風の姿で、飛鳥山の南の山吹屋へ入り、大座敷の一隅で酒を呑みながら、初造に教わった顔かたちの女性を探すと、すぐに見付かった。平凡な顔だちながら小肥りの体を機敏にさばき、絶えず柔和な微笑を浮べて働いているお勝が傍を通るので、平蔵は酔った振りをして呼び止め、酒をくれ、ここにいろといい、左手首をつかんだ。
 笑いながらお勝は、つかまれた手首を平蔵の鼻先に向けて上へ突き出し、なんなく外し、今すぐにとやんわりいって去った。平蔵がごろりと横になり、うたた寝をはじめたが、しばらくするとお勝が徳利をそっと置き、後には仙右衛門がいったという、おふくろ様の乳の匂いがしばし漂った。
 待たせて置いた駕籠に乗り、役宅へ帰る途中、平蔵は自分の手を見事に外したお勝の術が気になった。あの術は武家の女性でないと習得できない。しかし仙右衛門は、お勝が備前・岡山に生まれたが、早くから両親を失ったので、大坂で指物師をしている叔父に引き取られ、19の時に象牙細工師に嫁いだ、だが6年で死別し、その後江戸の縁者に呼ばれ、諸方で女中をし、この夏から山吹屋で働いたといっている。それではどこであの術を覚えたのか。この疑問が平蔵の胸で次第に大きくなった。
 熟考の末、平蔵は関宿せきやど利八りはちという密偵にお勝の身元を探らせることにした。利八は以前、人を殺さない等のおきてを守る大盗・うさぎの角右衛門の配下であったが、掟を破る部下が出たため、夜兎が一味を解散して自首した時、ただ1人一緒に自首した男である。平蔵は2人を見込み、石川島のにん足寄場そくよせばで1年間の職業訓練を受けさせ、夜兎に本所で小間物屋、利八に横網町で小料理屋を持たせて密偵としたのである。
 平蔵がお勝を見てから3日後、利八は大店の主人といった姿で駕籠で山吹屋の前に乗りつけ、店の者に庭の離れがいい、お勝さんに酒を持たせておくれといって離れに入り、煙草を吸い始めた。間もなくお勝が酒肴の膳を持って薄暗い次の間に入り、更に離れに入るふすまを開けた時、三沢家の親類の白子屋しらこや勘兵衛と名乗った人の顔をまじまじと見つめる。そしてもしや関宿の利八さんではと尋ねた。
 盗賊の頃の名前を呼ばれた利八は、薄暗くて顔がよく見えないお勝に突風の様に近寄り、両肩をつかむとあっと驚きの声をあげる。するとお勝の眼から見る見るうちに熱いものがこぼれてくる。お勝は盗賊時代の恋人(おしの)であった。2人が時雨しぐれの音を聞きながらお互いに見つめ合ってどれ程の時が流れただろう。そのあとお勝は15年前に捨てられたことをうらみ、利八はあの時2人は掟を破って恋仲になったからだとなだめるが、そんなことはどうでもよかった。お勝の両腕がいつの間にか、利八の首筋を巻き締め、全身の重味を利八にあずけてきた。
 利八が山吹屋を出たのは午後3時頃であったというが、この日の夜も次の日も役宅へ現われなかった。平蔵は翌日横網町へ行ったが、利八がいないので、本所に寄り、夜兎に山吹屋を調べる様頼んだ。その夜戻った夜兎は、昨日早くお勝が山吹屋を出てゆき、利八がすぐその後を付けたに違いない、しかし利八は必ず今夜にも何かいってくると思うと報告した。事実その通りになった。武州・桶川の休み茶屋の若者が利八からの長官宛と夜兎宛の手紙を役宅へ届けてくれたが、2つの手紙を総合すると、内容は次の通りである。
 お勝の父親・てんきゅうの政五郎は先代夜兎一味の錠前じょうまえはずしであった。お勝が19の時、父親が病死したので、先代が引き取り、1人前の引き込み女に育て上げた。その頃関宿の利八が人を殺さない等の掟を守る大盗・みのの喜之助のところから2代目夜兎の配下として移ってきた。お勝と利八が組んでおつとめをした時、2人は掟を破って、できてしまった。この場合1人が別の一味に移るか、2人共殺されるかの制裁を受ける。幸い蓑火がお勝を引き取ってくれたが、15年後2人は偶然山吹屋で再会したのであった。
 一方お勝を引き取った蓑火は間もなく足を洗い、一味を解散したので、お勝は中国筋ちゅうごくすじの盗賊・なごの七郎の配下となった。霧は実兄・小川や梅吉と義母・おすめを平蔵に捕えられたので、今年の春に江戸へ潜行し、三沢家へ押し込み、金銭を奪い、皆殺しにして復讐することを考えた。このためお勝が仙右衛門の後妻に入り、約1か月後にお勝の引き込みで、一味11名が襲うことになっている。しかし2人は一味に殺されてもいいから、一緒に逃げる決心をした。また長官には、せめてものお詫びに、お勝から聞いた一味11名の所在をお知らせするので、お赦しを願いたい。
 この手紙を読んだ平蔵はすぐ部下12名に出役を命じ、3手に分け、自らも霧のいる駒込片町の数珠屋・油屋へ向かったのは、午後10時過ぎであった。平蔵は霧を峰打ちで倒し、彼を含め6名全員を逮捕した。また市中に散開している5名も余すところなく縄にかかった。
 その翌朝、平蔵は昼過ぎに久栄に起こされた。今朝仙右衛門殿がお見えになり、せがれ夫婦がお勝さんのことに賛同するよう、平蔵さんに説得してほしいとお願いされています、大変な勢いで私には扱い切れませんという。自分を待っているだろう仙右衛門の情熱をどの様にしずめたらよいものか、困り果てる平蔵であった。
 以上が概要である。以下感想を述べると、この小説は王子権現が江戸の人々にとって最高の遊山行楽の地であったことを教えてくれる。それはあのトロイヤ遺跡を発見したドイツのシュリーマンが、慶応元年(1865)にここを訪れたことでも明らかである。彼の手記によれば、6月27日、騎馬で王子へ行き、竹と巨木の群生する広大な境内の中にある家康公を祭る王子権現に参詣し、その後有名な茶屋で伝統的な日本料理を賞味している。これら国際的にも有名な江戸時代の遺跡が戦災にあったことはとても残念に思う。(参考シュリーマン「清国と日本」講談社学術文庫)
 次に小説中の人足寄場は、平蔵が寛政元年(1789)に提言し、寛政2年から4年まで、人足寄場取扱を兼務して完成させた幕府の施設で、天明の飢饉で増加する失業者や軽犯罪者に公共職業訓練を行い、職業紹介をする所で、これは平蔵の三大功績の1つである。残りの功績は天明7年(1787)に起きた、暴徒が米屋・酒屋・高利貸等を襲い、略奪をした江戸最大の騒動を、御先手組弓頭として鎮圧したこと、そして天明7年から寛政7年(1795)までの8年間、火付盗賊改め方長官として犯罪者の逮捕に抜群の成果をあげたことである。
 最後に小説では書かれていないが、お勝は自分の様な者を真剣に妻に迎えようとする人を殺せないと思ったのではないか。また利八は自分の様な者を助けてくれた人の親戚を救いたいと思ったのではないか。そう思った時、2人は一味に殺されてもいい、一緒に逃げようと決心をしたのであろう。また平蔵も一味全員を逮捕して、2人を助けなければならないと決意したのであろう。