第14回『都庁時代の池波』

 池波正太郎は昭和21年から30年まで東京都職員として勤務し、戦後の経済社会の混乱の中で蔓延する伝染病の予防や困難な地方税の徴収のために一生懸命働いたことは余り知られていない。しかしこの公務経験が、本人の言及はないものの、鬼平犯科帳と深く関係しているように思えてならない。

 初めに日本では終戦直後、赤痢、ジフテリヤ、発疹チフス、マラリヤ、天然痘、日本脳炎等が大流行し、多くの人が亡くなった。このうち発疹チフスはシラミが媒介するリケッチャによる伝染病で、シラミに刺されて1、2週間すると発熱し、2、3日で39、40度に達し、4日目には発疹が出て、血圧が下がり、意識が混濁し、死亡する。これが全国的に流行したので、進駐軍は21年1月に特別チームを編成し、1,700万人にシラミの駆除剤DDTを撒布し、530万人に予防接種を行った。その結果チフスは20年から25年まで33,082例が発生し、3,478人が死亡したが、次第に終息していった。

 また21年から25年にかけ地方税制の大改革が行われた。その結果都道府県税の収入が20年の3億円から26年に279倍の838億円に、また市町村税の収入が6億円から218倍の1,303億円になり、地方自治体の財政基盤が確立されていった。しかし地方税を支払えない中小企業が多く、税の徴収関係の仕事は大変であった(『GHQ日本占領史』杉山章子訳。日本図書センター)。

 このような終戦直後において、『青春忘れもの』(中公文庫)や『おおげさがきらい』(講談社文庫)、『完本池波正太郎大成』別巻(講談社)によると、20年8月、鳥取県の海軍美保航空基地から東京へ復員した22の池波は、何をすればよいのか分からなかったという。しかし21年読売が演劇文化賞の創設を発表した時、ひとつやってみるかという目的が初めて生まれた。ただ半年間収入なしでは戯曲を書けないので、進駐軍と東京都が発疹チフス撲滅のため募集していた労務員になった。

 池波が配置されたところは、浮浪者の密集地帯として有名だった上野山内をひかえる下谷(現台東)区役所であった。作業は進駐軍の兵士達が区役所にやってきて、労務員を引きつれ、焼け残りの家々でDDTの撒布とワクチンの注射を行い、患者が発生した場所は再三にわたって消毒し、これを管理することであったが、下谷区の場合は発生患者が多く、池波は昼夜兼行で働いた。そんな中で「雪晴れ」という戯曲をなんとか書き上げ、読売に出したところ、選外佳作となった。

 一方進駐軍は東京都に保健所の設置を命令し、22年から池波は東京都の正職員に採用され、下谷区役所に設けられた保健所の職員となった。そして進駐軍の代わりに学生アルバイトをつれて、浮浪者を入浴させたり、注射をしたり、収容宿舎ができるたびに移したり、夜中上野駅の地下道の出入口をふさぎ、白衣にマスクで注射道具とDDT撒粉器を持って飛び込み、逃げまわる浮浪者を捕え、感染から守ったりして、汗みどろになって働いた。

 仕事が終わると、感染等をせぬよう必ず入浴及び上着と下着の洗濯をした後、次の戯曲を書いたが、母達と住む借家を明け渡すことになった際にも、上司の配慮で下谷保健所の事務室に寝泊りを許され、仕事と執筆を続けることができた。その結果次作は佳作となり、長谷川伸に認められる。

 昭和25年に結婚し、保健所の仕事も一段落したので、27年、目黒税務事務所に転勤し、徴収員として、家屋税や事業税、飲食税、自転車税等の地方税滞納者の家を訪ね、これを整理して歩いた。

 ある時大臣の私邸の家屋税を取りに行った時、応待に出た人が大臣風を吹かせ、警察に届けてから取りにこい等と筋違いなことをいうので、税金を決めた政府の大臣がこんなことでは困ると思い、差押えを強行した。大臣側はすぐ税を払ったが、池波はこれ以外差押えはしなかったという。

 またある人が自分をけだもの扱いにし、罵倒の限りをつくした時、池波はその人の頬を張ってしまい、抗議の人が押し寄せてきたが、上司が応待をし、かばってくれたともいう。

 30年、池波は戯曲や小説で身を立てる決意をして辞表を出すが、山村課長が万一の場合を考えて、辞表を半年間握りつぶしてくれたことを後で知り、大変感謝をしている。

 一方辞職した池波も徴収員として歩いた町を度々訪れ、自分に協力して少しずつ納めてくれた滞納者の店が繁昌しているのを見て喜び、同様の店が苦境を切り抜けられず、無くなっているのを見て悲しんでいる。

 このような経験が昇華され、名作が生まれたのではないかと思われる。

 なお台東区役所は、そんな池波正太郎を記念して池波正太郎記念文庫(台東区西浅草3-25-16)を設置している。