第8回『殿さま栄五郎』

 『殿さま栄五郎』(文春文庫14巻)を読むと、鬼平は犯罪の取締りに当たっただけではなく、犯罪の予防のために「人足寄場」の設置を幕府に建言した人でもあった。以下、少し長いが、その部分を引用してみる。

 平蔵が、「近年の飢饉つづきによって、諸国から江戸へ群れあつまる無宿の者が跡を絶たぬ。なれども江戸の町は彼らのことごとくに食をあたえ、職をあたえるわけにはまいらぬ。凶年うちつづいて、これらの窮民が無頼の徒と化し、盗賊に転落する者も少なくない。よって、江戸へ入って来る無宿の者たちをあつめ、これを一箇所へ収容し、仕事をあたえ、手に職をつけさせたなら、彼らの更正と転落をふせぐことと、一石二鳥になる」と考えたのは、悪と怠惰の芽が出る前に刈り取ってしまい、別の善い芽を育むことになるからである。

 平蔵は老中・松平定信への人足寄場の建言を何度もおこなったが、幕閣ははじめ、「そのような小細工をしても、みちあふれている浮浪の徒を収容しきれるものではない」として、平蔵の建言を退けたものであった。

 「何をいうことやら」平蔵は苦笑して、「浮浪の徒と口をきいたこともなく、酒をのみ合うこともない上ッ方に何がわかろうものか。何事も小から大へひろがる。小を見捨てて大が成ろうか」

 ねばり強く建言をつづけたので、ついに松平定信が断を下し、築地の海に浮かぶ佃島に隣接した石川島の内の6,000坪の地へ、「人足寄場」を設けることとなった。

 寄場は3棟の建物と浴場などから成り、ここに収容された無宿者は約3年の間、それぞれの職業をならいおぼえ、「これなら正業につける」と、判断されるや釈放されて世間に出られる。(以下略)

 引用は以上であるが、当時の状況を補足すると、次のとおりである(重松一義著『長谷川平蔵の生涯』新人物往来社)。

 天明3年(1783年)の浅間山の大噴火は、深刻な飢饉をもたらし、江戸でも米価は3、4倍に騰貴して、餓死者、無宿人、盗賊が増加、7年5月には打ちこわしが全国で37件も発生し、江戸では軍隊である御先手組が出動したくらいであった。このため6月には、田沼意次失脚後空席であった老中首座に松平定信が座り、9月には打ちこわし鎮圧に功績があった御先手組弓頭の一人である鬼平に、火付け盗賊改の兼務を命じた。鬼平は寛政7年5月に急死するまでの8年間、記録も残っているが多くの事件を解決している。

 また鬼平は、寛政元年(1789年)の10月と12月に人足寄場設置の上申を定信に行い、翌年2月人足寄場取扱いの兼務も命ぜられた。以来、4年6月まで大変な苦労をして人足寄場を軌道に乗せたのであった。

 なお、無宿人が習う職業は、外役として川ざらえ、材木運搬、水運搬、御蔵人足など、内役として大工、左官、屋根ふき、鍛治、炭団作り、紙すき、表具、彫刻、画工、洗濯、裁縫、機織りなどがあり、実に多種多様であった。

 以上からおわかりのように、人足寄場はわが国の公共職業訓練所の始まりであったが、面白いことに池波は昭和17年、小平にあった国民勤労訓練所へ入り、2ヵ月の公共訓練を受けた。なお、この訓練所は今の職業能力開発総合大学校の前身である。