随想 鬼平犯科帳

第5回『五月闇』

 鬼平の下には54人の密偵が働いていたが、なかでも伊三次があの暮坪の兄・強矢すねやの伊佐蔵に殺された『五月闇さつきやみ)』(文春文庫14巻)の話は哀切である。

 伊三次は岡場所「みよし屋」のなじみの妓から、左胸に深い傷のあるイサさんという客が来たと聞き、それは凶盗・強矢に違いないと鬼平にすぐに報告したが、強矢について聞かれると、答えられなかった。伊三次には親分である強矢の女房と密通し、彼を殺そうとして左胸を斬り、挙げ句女房も殺したという、人には言えない過去があったからだ。

 その苦しげな顔を見た鬼平は、「みよし屋」での張込みを他の密偵に任せた。伊三次もそれでよいと思っていたが、半月経っても強矢は現れない。その後も毎日雨が降り、ひとり役宅の部屋でもんもんとしていた伊三次は、様子が知りたくなって「みよし屋」へ向かった。しかし、入る勇気が出ず、近くの居酒屋に入る。飲んでも酔えず引き返そうと外へ出ると、「みよし屋」へ行く前にそこで飲んでいた強矢があとをつけ、振り向いた伊三次の腹をえぐった。

 伊三次は気を失う前に、駆けつけた大名屋敷の番人に改方への連絡を告げていたため、屋敷へ運ばれ、外科医の手術も受けられた。

 その数日後、見舞いに訪れた鬼平に伊三次は、死ぬ前にぜひ聞いてほしいと五月闇のような過去を告白したのである。これを聞いた鬼平が、「それでさっぱりしたろう。なれど忘れるな。お前はわしの子分だということを、な」と言うと、伊三次はすすり泣くのであった。

 それから鬼平は「みよし屋」へ向かったが、その頃そこへ現れた強矢が亭主の顔の変化を見て危険を感じ、偶然鬼平の方向へ逃げてきたため、ようやく逮捕することができた。しかし、伊三次の命はあと2、3日となる。そんな伊三次の枕頭に座り続け、見送ってやる鬼平だった。

 なお、この伊三次の突然の死に対し多くの読者が抗議をしたので、作者は次のような趣旨の釈明をしている(『私の仕事』朝日文芸文庫)。

 戦争中、徴用で飛行機の精密部品を作る旋盤工をやったとき、指導員が仕事をする前に「どこから手をつけるか、よく考えろ。手順が一つでも狂えば精密部品はできない」と教えてくれ、その通りするとうまくできた。実は小説も、旋盤工のときに体で覚えた感覚で書いており、あらかじめ伊三次を殺そうと思って書き始めてはいないが、手順を一つ一つ大切にして書いていくと、伊三次が殺されてしまう。それは彼の過去と性格によるのだ。

 作者が言うように、鬼平は精密部品のような作品なのである。