第15回『本門寺暮雪』

 『本門寺暮雪』(文春文庫9巻)は、柴犬が鬼平を救う物語で、池波の自選作でもある。

 鬼平が芝・二本榎の旗本・細井彦右衛門の見舞いに行くというので、妻・久栄が支度をすると、髪飾りが落ちて割れた。久栄は不吉というが、昔、放蕩無頼をしていたときも助けてくれた細井の亡父への恩義を忘れずに、病身の細井の面倒をみる鬼平は、かまわず出かける。

 薬は別途部下が届けてくれるので、二本榎へ直行すると、聖坂で偶然、今は乞食坊主だが、元御家人で高杉道場の剣友・井関と会う。井関が「向こうの茶店にいる悪い奴をつけている」と言うので、鬼平は「その行く先を探り、細井邸へ来い」と思わず言ってしまい、事件に巻き込まれる。

 細井一家は鬼平の見舞いを大変喜び、井関のことで「明日、池上の本門寺へお参りするので、2人を泊めてほしい」と頼むと、快く了承してくれた。その夜、結局はまかれてしまった井関と泊まると、彼は「あの男は8年前、大阪で殺しの依頼を断ったときに襲ってきた浪人で、自分が背中を斬られ、かろうじて逃げた“凄い奴”だ」と打ち明けた。

 翌朝、井関は鬼平が書いた地図に従って本門寺の方向へ歩き出すと、“凄い奴”が後をつけている。その後を鬼平がつけると、“凄い奴”はどこかで消え、その後は現れないので、結局2人は本門寺へお参りし、茶店で泊まることにした。

 茶店には柴犬がいてすり寄ってくるので、煎餅を与えた後、鬼平は暮雪の中を井関と傘をさし、96段の石段をあと数段まで登ったとき、“凄い奴”が上から襲ってきた。井関は転げ落ちて気絶し、鬼平は三の太刀をかわして、やっと小刀を抜くが、大刀を振りかぶる“凄い奴”を見て「これが最後か」と感じた瞬間、あの柴犬が右足に噛み付いたのである。この隙に体当たりをすると、“凄い奴”は転げて大刀を落とし、下へ逃げたので、鬼平は粟田口国綱あわたぐちくにつなを抜き、総門前に追い詰め、その胴を払った。

 以上だが、作者は随筆『ル・パスタン』(文春文庫)で「亡師・長谷川伸に2匹の愛犬がいて、昭和38年のお通夜の夜、哀しげに泣きつづけていた。その1匹が生んだ仔犬をもらって、クマと名づけた。亡母がとくに可愛がったが、クマは昭和43年に死んだ」旨を書いている。これを読むと、このクマの死を悲しみ、47年、鬼平犯科帳の世界に蘇らせたのが、この『本門寺暮雪』ではなかったかと思う。

 というのは、恩人・細井の屋敷が亡師・長谷川と同じ二本榎であるし、鬼平はこの後譲り受けた柴犬に、同じクマという名を付けたからである(『浅草・鳥越橋』9巻)。

 ただし、鬼平とクマの出会いが二本榎ではなく、本門寺という点は違う。しかし、鬼平は日蓮宗だから、本山の本門寺へ参詣したいと思うのは自然だし、そこで、蘇ったクマが“凄い奴”に噛み付くのも、善行を積む鬼平を御本尊が救われたと思えば自然である。

 こうして命の恩人となったクマは、さらに『狐雨』、『犬神の権三』、『蛙の長助』等に登場し、鬼平に可愛がられるのである。